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米国の政治歴史振り返り

弾劾をさけるため、ニクソンは1974年8月9日に大統領を辞任した。大統領の辞任はアメリカ史上はじめてのことである。1カ月後、後任の大統領ジェラルド・フォードは、ニクソンが大統領在任中におかした罪のすべてに特赦をあたえると発表。ニクソンはこれ以後、連邦の訴追をまぬがれた。
  • テープに録音されたオーバルルームでの会話はとても大統領の発言とは思えないような粗野な言葉、差別的な言葉の連続で世論を唖然とさせた。

トランプとは基本的に違うのはトランプは差別的なことや、恫喝的なことを常にオープンにしてきたこと。秘密めいたことではなくツイッターなどで広くあまねく公言してきたこと。
現時点では不確実な世相を煽り立てはいるがまだ大統領ではないこと。大統領職権を乱用には当たらないし、自らがクリントンの当選妨害工作をしたのではなさそうな点。勝手にロシアがしてくれたかもしれないが。口汚く発信しまくっているが、手は汚れてないし、その手で口を拭えばすむこと。
結構頭良くやってきているようですから、将来とも弾劾などというような事態にはならないでしょう。太った豚、アホの映画監督マイケル・ムーアは悔しがっているでしょうが。
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  • 「ウォーターゲート事件」  
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  • アメリカ合衆国大統領ニクソンの再選を策するグループが,ワシントンのウォーターゲート・ビルの6階にある民主党全国委員会本部に侵入し,盗聴装置を仕掛けようとして未遂に終わった事件は1972年6月に起きた。

ニクソン政権はニクソン・ドクトリンによって同盟国に対する防衛約束の縮小を図った。

-【良点】キッシンジャー外交で中国と友好関係を構築し、ベトナム戦争を終結させて現実的な路線で外交をしました。 



  • ニクソン大統領は1972年の大統領選挙の際の不正行為に関連して弾劾の訴追を受け,上院で裁判にかけられ,辞任した。 
  • 弾劾裁判の効果として刑罰を伴うイギリス型と罷免にとどまるアメリカ型とがある。…
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  • 1973年5月、大統領の活動に関する上院特別委員会の公聴会が、ノース・カロライナ州選出のサム・アービン議員を座長としてひらかれ、おどろくべき事実が次々に明かされた。この公聴会でディーンは、ミッチェル(ニクソン大統領再選委員会の責任者)が侵入を命令したこと、ホワイトハウスが事件のもみ消し工作をしたこと、さらにニクソン大統領が侵入犯に口止め料をはらうといったことなどと爆弾証言をしたのである。当然、ニクソン政権はこの事実を強く否定したのであった。
 


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1971(昭和46).8.28日、8.15日の「ニクソン声明」により、1ドル=360円の固定相場制から変動相場制へ移行させた。1960年代後半以降、ヴェトナム戦争の戦費の増大・海外投資の増加・貿易赤字の増大などによってアメリカの国際収支は著しく悪化し、国際通貨であるドルに対する信用が大きく低下した。この為、ニクソン大統領はドル防衛のため、ドルと金の交換の停止を発表した(「ニクソン・ショック」)。
 同12月、続いてスミソニアン合意によってドルの7.89%切下げが行われ、更に1973.2月、ドルの10%切下げを一方的に発表した。このドル危機は世界経済に大きな衝撃を与え、これによって第二次世界大戦後続いてきたIMF体制(ブレトン=ウッズ体制)は崩壊した。